奥秩父縦走(23/05/03-07)

◎メンバー

淺香(CL、経3)、関(SL、法3)、田村(装備/記録、社2)

 

◎天気

5/3 快晴

5/4 快晴

5/5 快晴

5/6 晴時々曇り

5/7 雨

 

◎コースタイム

5/3

0932三峯神社約2km手前車道---1000三峯神社バス停1039---1056妙法ヶ岳分岐---1152地蔵峠---1159霧藻ヶ峰1204---1209霧藻ヶ峰休憩舎---1223お清平1229---1313前白岩山の肩1317---1332前白岩山1333---1402白岩小屋1403---1423白岩山---1520大ダワ1521---1551雲取山荘

 

5/4

0558雲取山荘---0624雲取山0641---0642雲取山避難小屋0644---0701三条ダルミ---0737狼平---0804三ッ山---0918北天のタル0919---0938山頂近道分岐0939---0955飛龍権現神社1005---1009禿岩1011---1037大ダル---1215将監峠1240---1250牛王院平---1257山ノ神平---1511黒エンジュ1532---1541シラベ尾根---1611笠取小屋

 

5/5

0601笠取小屋---0611雁峠分岐---0619雁峠---0702燕山0704---0808水晶山---0832雁坂峠0849---0935雁坂嶺0941---1043東破風山---1107破風山1124---1156破風山避難小屋1203---1324木賊山まき道分岐---1344甲武信小屋

 

5/6

0556甲武信小屋---0608甲武信ヶ岳0616---0631 2353m地点---0651水師---0720富士見0729---0751両門ノ頭0753---0844東梓0853---0932国師ノタル---1159国師ヶ岳1207---1215三繋平---1220北奥千丈岳1222---1232三繋平---1235前国師ヶ岳---1252夢の庭園1254---1306大弛小屋

 

5/7

0415大弛小屋---0519アコウ平登山口(アコウの土場)---0640鶏冠山林道(西線)起点---0648六本楢峠---0712柳平ゲート

 

 

◎行動と感想

 5月3日、水曜日。玄関を開けると、爽やかな春風を肌に感じた。夜明け前の風だというのに、ほんのり暖かい。これから始まる長期山行に思いを馳せ、駅へと向かう。午前8時、西武秩父駅に馴染みのある顔を見つける。今回の山行は、新入生の確定合宿(雲取山)と、初日のみ同じ行程に設定している。本来は、例年通り、鴨沢から七ツ石小屋を経由して登るはずであったが、今年は5月に雪渓訓練を実施するべきだという案が出ており、急遽、確定合宿の日程が1週間ほど前倒しになった結果、連休中の七ツ石小屋の予約を押さえることが難しくなった。雲取山荘であれば予約不要なため、三峯神社からのルートを選択したという運びであった。4名の新入生は、既に十分に経験がある者、初めて本格的に登る者など様々な顔ぶれであったが、いずれもすっきりとした表情で、これから始まる山行を待ち望んでいるかのように見えた。奥秩父山行に3名、雲取山に10名、計13名の大所帯であったが、その中でただ一人、淺香さんの姿だけ見つからない。電話をかけたところ、8時4分に駅に着くとのことだった。乗る予定のバスは8時発。そこで、残りの12名は予定通り出発し、淺香さんのみ次発8時半の便で追いかける、という形をとることにした。8時の始発便は、ものすごい数の乗客であった。待機列が幾重にも折り返され、結局バス3台がいっぱいになった状態で発車した。我々は早い時間から並んでいたため、全員が座席に座ることができた。しかし、5日分の装備が入った僕のザックは、膝の上にかなり窮屈であった。バスに揺られること約1時間半、三峯神社まで約2kmという地点で、駐車場を待つ車の渋滞にはまってしまった。考えてみれば大型連休の初日の朝、渋滞するのも不思議ではない。計画の段階では渋滞について何ひとつ考慮していなかったため、この時は少し不安になった。渋滞のことまで考えて、余裕を持った行動予定を立てるべきだと学んだ。バスの運転手のご厚意で、渋滞の中で途中下車し、車道を歩くことになった。長期縦走の幕開けが車道歩きになってしまったことについて、個人的にはかなり精神的にダメージを受けた。30分ほど歩いて、三峯神社バス停に到着した。トイレを済ませた後、雲取山チームが2パーティに分かれて出発して行った。そこから5分も経たないうちに、淺香さんが到着した。淺香さんも車道をかなり歩いてきたそうだ。渋滞がもっと続いていたはずなので、僕たちより歩いた距離が長かったことだろう。しかし到着が思いのほか早く、その健脚ぶりがうかがえた。三峰口からの登りは急登が続いた。また、他の登山者が非常に少なく、静かな印象も受けた。最初の休憩で、雲取山チームと合流し、道を間違えていないことを確認できて安心した。その後も長い道のりが淡々と続いていたが、同期のハンギョルが途中、暑くなって長ズボンを捲し上げていたことが、鮮烈に記憶に残っている。お清平過ぎには派手な岩場があり、新入生が一発目に登る山としてはやや酷だと感じた。来年度以降、もしこのルートを使う場合は、覚悟を持って臨んでほしい。それでもなんとか、13名全員が雲取山荘に日の入り前に到着できた。1年生の顔には疲労の色が見られた。大勢の他の登山者が既に到着していて、色とりどりのテントが並んでいた。ほとんど張るスペースがなかったため、4張のテントを別々の箇所に分かれて設営した。我々はキムチ鍋と、〆にうどんを食べた。本来こちらとしては、1日目のみ雲取山チームの食事をお裾分けしてもらう、ということで暗黙の了解をしていたのだが、うまく意思疎通ができておらず、雲取山チームの鍋が10人前しかないことがわかったので、渋々ながら翌日以降の夕食を繰り上げたのであった。キムチ鍋の素は、淺香さん曰くキューブ状のものが売り切れていたそうで、ストレート状のものを持ってきていた。重かったことに違いない。味はとても美味しかった。学習したことといえば、乾麺のうどんは、茹で汁を飲む処理が大変、ということである。塩分が高いだけでなく、粉物特有のヌメリがあって、非常に飲みづらさを感じた。うどんを食べたい場合は、流水麺のような生麺を持参するのが良さそうである。結局、その夜はトイレにも歯磨きにも行くことなく、気づいたら寝てしまっていた。予想外の車道歩きと長い登りの連続で、非常に疲れが溜まったようである。

 

 5月4日、木曜日。雲取山チームは朝の4時ごろに出発したそうで、彼らの姿を見たのは3日の夕方が最後ということになった。目が覚めると既に日が昇り、明るくなっていた。雲取山チームが今頃どこを歩いているだろうかと考えながら、支度を進めた。トイレが土足禁止で、登山靴を着脱しなければならないのと、ただでさえものすごい行列ができており、思ったより時間がかかってしまった。予定よりも1時間ほど遅く、6時前に出発することになった。雲取山荘の玄関口には鯉のぼりが飾られていた。それを見て、翌日がこどもの日ということを思い出す。距離にして18.4km、今回の山行の最長距離を歩く1日が始まる。とはいえ、僕はこの時は気分がよかった。念願の東京都最高峰まで、あと一歩に迫っていたからだ。昨年5月にやや遅れて入部した僕は、雲取山の確定合宿に参加できなかった。高校時代も、雲取に登ったことは1度もなかった。雲取山は、ずっと登ってみたいと思っていながら行けていなかった、憧れの山だった。30分弱歩いて、山頂に到着した。富士山がくっきりと見え、とても満足した。少ししてどこかの高校山岳部の集団が登ってきて、関さんが写真を撮ってあげていた。男女の人数のバランスが同じくらいで、とても楽しそうであった。彼らの中から、数年後に一橋山岳部に入ってくる人がいるかもしれない。山頂では、少し靴擦れの兆しがあったので、かかとに絆創膏を貼った。この早目のケアが、後々功を奏することとなる。山頂から少し下ると、雲取山の避難小屋があった。雲取山荘で長時間並ぶくらいだったら、少し我慢して、こちらのトイレで済ませた方が効率良さそうだと思った。石尾根を横目に、ここからはひたすら西へ向かう。この日の午前中の会話は、「何でもいいから面白い話」というお題だったように思う。関さんは南スーダンの紛争の話をしていた。僕は三角州とアスワンハイダムについて語った。途中の休憩では、淺香さんがじゃがりこを分けてくれた。僕も今回初めて挑戦した、ドライマンゴーをお裾分けした。今思うとこのドライマンゴーは、行動食としての適性がとてもあった。軽くてカロリーが高く、何より糖分が疲れた体に嬉しかった。我々の大きな装備を見て、どこまで行くのか、あるいはどこから来たのかと、他の登山者たちに度々質問された。笠取小屋までと答えると、とても驚かれた。どうやら雲取山の次には、将監小屋で一泊というのが普通みたいである。その後も、しりとりと山手線ゲームで気を紛らわせつつ、歩いていった。途中僕が関さんの後ろにピッタリとくっついて歩きすぎて、ザックの死角に隠れた枝に顔面を派手にぶつけて出血するという初歩的な大失態があったが、運よく大事には至らなかった。12時すぎに将監峠に着いた時には、3人ともくたくたの状態であった。ヤマレコを見て初めてわかったが、実に25分もの間、ここで休んでいたことになる。だがしかし、この日本当にきついのはここからだった。将監峠から、唐松尾山・笠取山の稜線上を歩くルートと、笠取小屋までひたすら巻き続けるルートがあり、登る気力が残っていなかったために後者を選択したのだが、これが悪路の連続だったのである。土が抉り取られ通行できないほどの荒れ模様になっている場所や、倒木が行く手を阻み、上から跨ぐことも下からくぐり抜けることも大変な箇所などが続いた。淺香さんは、5日間を振り返って、このトラバースが最も大変だったと供述している。笠取小屋直前の黒エンジュでは、淺香さんと関さんは土の上で思わず仰臥していた。また、電波が繋がったので、Slackを確認し、雲取山チームが無事下山できたことを知ると同時に、自分達の入山報告が送信できてなかったことに気づき、再送信をした。入山報告は、電波が安定しているうちに早めに確実に送ることを心がけようと思った。笠取小屋に着いたのは16時過ぎ。10時間以上行動していたことになる。小屋の方々が非常に歓迎してくださった。水場で顔を洗って水を汲んだ後、小屋で飲み物を少々買って乾杯をした。シカの群れがテン場の近くに来ていたため、写真と動画を撮った。この日の夕食はご飯と麻婆春雨であった。淺香さんは今回も完璧に炊き上げた。蒸らしの際は、自身の衣服に包んで熱を逃さないようにするなど、熟練の技であった。僕も早く習得したい。消費エネルギーが大きかったせいか、お腹がいっぱいにならなかった。この日もすぐに眠りについた。

 

 5月5日、金曜日。山行3日目の朝である。僕は今まで2泊3日(それも3日目はほとんど行動していない)の山行が最長であったため、ここからは未知の領域に入ってくるといったところだ。笠取小屋を出発して雁峠まではよかったのだが、そこから燕山にかけてかなりの急傾斜が始まった。なお僕は、今回最もきつかったのはこの上りだった。この頃になると、かかとの靴擦れが悲鳴をあげ始めていた。だが、2日目に貼った絆創膏のおかげで、出血は免れたようだった。雁坂峠から先は、1度来たことがあるため安心感があった。そこから甲武信小屋まで、昨年7月に淺香さん・清水くんと来た道を思い出しながら、懐かしい風景が続いていった。雁坂嶺の山頂では、陽気な2人組のおじさん方に出会った。写真のポーズを楽しそうに決めていらっしゃった。曰く、甲斐駒ヶ岳の山頂では、(こまという響きから)コマネチのポーズをするのがいいとのことである。東破風山の山頂では、今年で喜寿を迎えるおばあさんに出会った。この方は毎年この時期に、決まって奥秩父を歩いていて、笠取小屋の人とも親交があるそうだ。同じく山好きの夫に先立たれ、今は介護施設で自分よりも年下を介護する生活をしていると、語っていらっしゃった。また、深南部の笊ヶ岳を気に入っているようで、その話も面白かった。山での一期一会は、特に貴重なものである。破風山の辺りで、初めて残雪が出てきたように思う。この日は、文部省唱歌を歌うなどして気を紛らわせた。国立、公立、私立と、出身がそれぞれ全く異なる僕ら3名が、曲を習ってから時間が経った今でも、同じように歌えることに感動を覚え、日本の音楽教育はすごいという結論に達した。木賊山分岐までの登りはやはりきつかった。今回の山行ではだいたい淺香さんか関さんが先頭を歩き、僕は基本的に最後尾でついていくという形をとっていたが、この登りのときは僕がついていけず、先輩2人の足を引っ張ってしまった。甲武信小屋直前になると、積雪量も本格的に増えてきた。甲武信小屋に着いたのは13時半すぎ。予定よりもかなり時間がかかってしまった。僕が高校時代のTシャツを着ていたため、到着してすぐ、船橋の方々ですかと訊かれてしまった。やはりこの部でもTシャツを作って、堂々と正しい所属を示すべきであると感じた。話しかけてきたこの小屋の若兄貴は、実家が北習志野にあるらしい。余談ではあるが、北習志野は習志野市ではなく、船橋市の地名である。束の間の船橋トークができて、嬉しい気持ちになった。その後は、30代くらいのお兄さんとしばらく談笑していた。あとは、この日に能登で震度6の地震が起こったという、他の登山者の話が耳に入ってきて驚いたのを覚えている。風がやや出始めていたので、僕はテントに入って休んでいた。先輩2人はベンチでゼミの本や英文を読んでいた。山でも勉強する姿を見て、まさに文武両道だと尊敬の念を抱いた。この夜、最終日の天気が崩れるという情報がわかり、金峰山・瑞牆山には行けないだろうという目処がついた。しかしいずれにせよまだまだ先は長いので、明日に備えて眠った。

 

 5月6日、土曜日。甲武信小屋は標高が高いからか、朝の冷え込みは厳しかった。また、大きな音があちこちで響くくらい、風も強く吹いていた。甲武信小屋のトイレは山のものとは思えないくらい綺麗だった。甲武信ヶ岳は風が強すぎて手短に通過した。そこからひたすら樹林帯を歩いていった。倒木がかなりあったように思う。途中、大学生らしき集団が国師ヶ岳側から歩いてきて、学生どうしお互いがんばりましょうと挨拶を交わした。富士見という地点は全くの嘘で、何も見えなかった。僕は喋る気力も出ず黙っていたが、淺香さんと関さんは相変わらず難しそうな学術的話題で盛り上がっていた。覚えている限りでは、ホモサピエンスに至るまでの、喉の構造の変化と言語との関係のような会話をしていたはずだ。国師ノタルを過ぎてからは、雪がすごい量になっていった。踏み抜きで足を取られ、体ごと崩れてしまったことも何度もあった。3人ともかなり体力を奪われた。やっとの思いでたどり着いた国師ヶ岳は、それは美しい山だった。広い山頂で、とても開放感があった。三繋平にデポして、奥秩父最高点である北奥千丈岳も登頂した。天気が下り坂になっているのをひしひしと感じたため、いずれの山頂でも、それほど長居はしなかった。三繋平から先は、よく舗装された木道になっていた。なめらかな表面のおかげで足裏には優しかった一方で、とても硬さがあって膝にはきつかった。大弛小屋では、主人が出迎えてくれた。登山道の状況はアイゼンをつけるほどではなかったこと、おそらく僕ら以外に登山者がいなかったことなどを伝えた。主人曰く、5月のこの時期は、大弛峠の車道ゲートが閉鎖されていて、登山者がいい意味で洗練されているから、対応するのが楽なのだとか。テントを張り、少し休んだのち、車道沿いに腰掛けて、3人で今後の山岳部について、どういう部活にしていったら良いかということについて語り合った。この時間は大変貴重だったと思う。

 

 5月7日、日曜日。最終日は3時に起床した。大雨の中、苦労してテントを片付け、車道をひたすら下っていった。6時を過ぎた頃に、塩山タクシーに電話をかけ、六本楢峠まで配車をお願いしたところ、もう少し下った柳平ゲートまででないと、車が通行できないとのことであった。山と高原地図には六本楢峠から、タクシーの目安時間と料金の案内があったのだが、やはりこうした情報は変わりやすいものだと思った。そうして、柳平ゲートに7時半という約束をした。7時すぎに、余裕を持って到着することができた。下山報告を済ませ、顧問の小西先生へのメールを送信した。5日間の総歩行距離、約65km。達成感はひとしおであった。その後、タクシーで塩山温泉宏池荘に向かい入浴。靴擦れでボロボロの足と、顔面の傷には、成分がよく染みて痛かった。その後塩山駅まで歩き、国立まで戻り、部室に荷物を置いて、ステーキテキサス国立店にて、食事をした。久しぶりの下界でのご飯は美味しかった。今後は、山岳部の人とご飯に行ったりすることも、増やしていきたいものである。部室に戻って、装備を返却して解散した。充実した5日間であった。